ワイアード・ビジョンに、ウィキリークスが2010年に約190万ドルの寄付金を得たという記事が載っている。そのうち70万ドルは、米陸軍上等兵が漏洩させたとされるアメリカの外交文書がウィキリークスや欧米のメディアで公表された直後の11月と12月に集まったものだという。
この寄付金はどう定義することができるのか。ウィキリークスという「報道メディア」ないしジュリアン・アサンジという「ジャーナリスト」への支援金か。あるいは、何かと隠蔽したがる政府機関から公益性の高い情報を引き出す「活動組織」ないし「活動家」への支援金か。
日本での新聞・テレビなどの既存メディアと、記者クラブ制度を強く批判するフリージャーナリストの人々との間にある距離というか溝を見ていて思うのは、その中間に位置するような「ミドルメディア」的なものが確立されていないことの問題点だ。
ミドルメディアという言葉はすでにウィキペディアにも載っているが、そこで定義されているソーシャルメディアや編集型のニュースサイト等は、さまざまなジャーナリストに活動の場(と生活)を保証するという意味ではまだまるで機能していない。
結果として、ジャーナリストとしての活動を志す人は、政財官界とマスコミ自身の古いしがらみにがんじがらめになった報道機関で勤め人になるか、何の経済的な保証もないままに原則すべてを独りで取り仕切らなくてはいけないフリージャーナリストになるかの両極端になる。
以前は雑誌がミドルメディアの役割を果たしていた。長文のルポルタージュ記事を発表したり、それらを単行本化することで、フリーランスであっても記者やライターとして活躍できる場が確保されていた。しかしジャーナリズム的な雑誌が退潮し、ネットに代替メディアが現れないことで、そうした場と機能がかなりの部分まで失われつつある。
その結果、何が起きているか。雑誌を含めた既存メディアでの仕事が減らされたフリージャーナリストは、単行本を出すか、有料メルマガを発行するか、カンパを募るかして活動資金を集めるしかない。
単行本は売れなくてはいけないから、売れそうな企画になる。ジャーナリストを名乗る人が、自己啓発本みたいな本を出したりする。メルマガは読者を集めなくてはいけないから、ついつい過激な物言いになったり、人によっては「デマ」ではないかと批判される内容が含まれるようになったりする。
カンパを増やすには、活動を応援したいという「気持ち」に訴えたほうが効果的である。なので、これも物言いが過激になったり、ジャーナリズムに期待されている「反権力、反体制、反権威」的な自らのスタンスを過度にアピールしがちになる。
「記者クラブ」とか「官邸」とか、問題を提起する対象をクリアにしてオフェンシブになればなるほど「読者」や「支持者」が増えて、ジャーナリストとして活動していくための保証を安定して得られる、といういささか歪んだ構図になる。
ということで、やってることや取材していることは真っ当で、既存メディアの問題点を考えても役立っているのに、表現がセンセーショナルすぎたり、ジャーナリストという仕事に伝統的に求められてきた中立性を明らかに踏み越えている、という例が増えているのではないかと思う。
でもそれで何が悪いの? という問いを突きつけているのがウィキリークスではないかと思う。あれ自体はジャーナリズムではないという意見もあるが、ガーディアン紙やニューヨーク・タイムズが従属的に(あるいは互恵的に)報道しているのを見てもわかるように、メディアとかジャーナリズムが総体として担っている役割の幅を広げ、定義を変化させ、進化させているのは疑いようがない。
ウィキリークスに集まった190万ドルの寄付金は、そのような可能性への期待であり、既存のメディアとジャーナリストを取り巻く状況への不満だろう。ジャーナリストなのか活動家なのかは関係ない。ひとえに真実を見せてほしいという。
となると、それがジャーナリズムなのか、特定の主張や立場に沿った活動なのかは、読者や視聴者が判断するしかない。活動家としての活動を認められてカンパを集めるのはいいが、ジャーナリストを装ってそれをやるのは許されるのか。そこを考えるのも情報リテラシーの問題だ。
生活の保証で言えば、ウィキリークス的なものが普遍の答えではないだろうが、安定した収入の裏付けがある何らかのミドルメディアが生まれることが、「記者クラブ的メディア像」と「煽るフリージャーナリスト」の不毛な二項対立に終止符を打つための一つの答えではないかとは思う。