ワシントンのユニオン駅近くのホテルで会ったグエン・フン(41)は、童顔ににこやかな表情を浮かべながらも、ちょっぴり憂鬱そうだった。
気持ちが晴れない理由は、仕事ではない。小さなコンサルティング会社の経営幹部としてうまくやっている。家庭も問題ない。妻と5歳の息子と幸せに暮らしている。フンを悩ませ、苛立たせているのは、大統領選に向けてバージニア州でアジア系アメリカ人コミュニティーを束ねる民主党代議員としての複雑な立場だ。
フンの悩みはアメリカ大統領選の複雑な仕組みと関係している。選挙は全米50州の有権者が誰に投票するかによって決まることに「なっている」が、現実はそうではない。
グエン・フン。ワシントンのThe Liaison Capitol Hillにて
11月6日の投開票日まで2週間を切った時点で、オバマとロムニーが遊説のためにたびたび訪れ、両陣営が相手を中傷するネガティブCMをテレビで大量に流し、各メディアが取材陣を送り込んでいるのは「浮動州(swing states)」と呼ばれる激戦区の11州のみ。選挙戦はこの11州だけで争われているといっても過言ではない。
よく知られているように、アメリカの大統領選挙は得票総数ではなく、州ごとに数が定められた「選挙人」をどれだけ多く獲得できたかで決まる。州ごとの選挙人は得票によって配分されるのではなく、1票でも多く獲得した党候補者にすべて与えられる「勝者総取り方式」になっている。
なぜそうなっているのかと言えば、そういう決まりだからとしか言いようがない。ワシントンで会ったある大手紙の支局長は「ほんとおかしなシステムだと思うけど、建国の父たちが決めたことだから仕方ない」と肩をすくめた。
なので、共和党のブッシュが民主党のゴアに競り勝った(ことになっている)2000年の大統領選のように、得票総数はゴアのほうが多かったけれど、獲得した選挙人の数が多かったブッシュが当選、ということがまれに起きる。今年もそうなる可能性が指摘されている。
浮動州以外の39州では、支持率調査から、オバマとロムニーのどちらが選挙人を総取りするかがすでにほぼ確定している。これら、すでに選挙が実質的に終了している州の選挙人をカウントすると今のところオバマが201人、ロムニーが191人(Real Clear Politicsの算出)。全米の選挙人の総数は538人なので、過半数の270人以上を獲得すれば勝利となる。
その浮動州の情勢が今どうなっているかというと。
単純な支持率ではギャラップ社の調査でロムニー50%に対しオバマ46%、ラスムッセン・リポーツでロムニー50%に対しオバマ47%、世論調査等の分析で定評があるRealClearPoliticsが全米平均をとった数値でロムニー47.7%に対しオバマ46.8%だが、10月27日時点の支持率でオバマが上回っている浮動州(ネバダ、ウィスコンシン、ミシガン、アイオワ、オハイオ、ニューハンプシャー、ペンシルベニア)をすべてオバマが実際に獲得すれば選挙人は計281人となり、残り4州を落としても当選できる。
ただ、楽観できる差ではない。
注目されるのは11月2日に発表される10月の米雇用統計だ。10月に発表された9月の失業率が7.8%で、3年8カ月ぶりに8%を下回ったため、それが製造業の多いミシガン州、アイオワ州、オハイオ州などで現職オバマの支持率が好転した主因とも指摘されている。
現職大統領で、失業率が7%を超えていて再選を果たしたのは84年のレーガンだけ。オバマが現在リードしている州のうち、支持率の差が最も少ないニューハンプシャー州と、共和党の副大統領候補ポール・ライアンの地元ウィスコンシン州がひっくり返るだけで、過半数の270人に足りなくなる。
というわけで、どちらの陣営にとっても絶対に落とせないのが支持率同数で拮抗している、グエン・フンの住むバージニア州なのだ。
バージニア州が注目される理由はそれだけではない。
バージニア州は大統領選ではもともと共和党が強い地域で、南部と東部のほとんどの州で民主党のジミー・カーターが勝った76年の選挙、クリントンが地滑り的勝利を収めた92年の選挙を含め、1968年から2004年まで11回連続で共和党の候補が選挙人を獲得した。
それが4年前、40年ぶりに民主党が勝利して話題となった。つまりバージニアはブッシュからオバマ、オバマからロムニーという浮動層や共和党穏健派支持層の心の揺れを映し出し、結果として前回、今回と連続して選挙全体のキャスティング・ボートを握る存在となっている。
もう一つの理由は失業率。バージニア州の失業率は全米平均の7.8%を下回る5.9%で、50州の中で12番目に低い。となれば現職に有利になりそうなものだが、そうならないのは、2013年1月1日から強制的な歳出削減が執行されて米財政が危機に陥る、いわゆる「財政の崖」が最も深刻な打撃を与えるとみられているのがこのバージニア州だからだ。
州の失業率が低いといっても、地域ごとにかなりばらつきがある。カウンティー(郡)単位でみてみると、失業率が5.0%以下の郡も集中する北部と、全米平均を上回る郡も多い南部とで露骨に格差が表れている。
首都ワシントンに隣接する北部エリアには国防総省とCIAがあり、連邦政府の各省庁、議会関係者、大企業の社員のベッドタウンでもある。アメリカの主要な防衛コングロマリットのほか、軍需産業やセキュリティー産業を中心とする政府のさまざまな公共事業を請け負う契約企業も集中している。
またソフトウエアベンダーなど情報通信産業のベンチャーが2000年以降に勃興して、可処分所得や学歴が高く若い世代のホワイトカラーが他州から流入した。彼らが2008年のオバマ勝利をもたらしたとされる。
一方、ノースカロライナ州と隣り合う南部エリアは伝統的に農業地帯で、今年アメリカを襲った記録的な干ばつにも大きな被害を受けた。ただしノーフォーク海軍基地、ラングレー空軍基地がある南東部のチェサピーク湾岸は失業率が低い。
つまりバージニア州の失業率の低さ=経済の好調さは、すぐ隣のワシントンから潤沢に流れ込んでくる連邦政府予算、とく軍事関連予算に支えられている。問題は、「財政の崖」をもたらす大規模な歳出カットに、今後10年間で国防予算を4870億ドル(約38兆円)削減することが盛り込まれていることだ。
アメリカの国防支出(2000〜2011年)
アメリカの国防予算は911テロ以前の年間3000億ドルから、11年間で7080億ドルに膨れ上がった(上表)。イラクとアフガニスタンでの直接的な戦費(チャートの赤い部分)だけでなく、オバマ政権になってから強化された無人攻撃機、精密誘導兵器、サイバー対策兵器など通常兵器の本体予算も増えている。
2012年度は駐留イラク軍の撤退などで5%減の6710億ドルとなり、911テロ以降で初めて減少に転じたが、毎年1兆ドルを超える財政赤字の抜本的な削減計画の中で国防予算のカットは中核に据えられている。陸軍を8万人、海兵隊を2万人削減し、F-35の調達も遅らせる予定だが、ほかにもさまざまな予算項目が影響を受けることは避けられない。計画通りに削減が実行されれば、州経済の40%以上を国防予算に依存するバージニア州では最大20万人の雇用が失われるとの推定もある。
グエン・フンにとってはまさにこれが悩みのタネだ。
彼自身、コンサルティング業務の大半は連邦政府の請負契約業者のコーディネートやアドバイスなど政府予算のプロジェクトに関係するものなので、オバマ政権が押し進める歳出削減は彼自身のビジネスを直撃する。
しかし、ブッシュとネオコンが始めた戦争のおかげで膨張した国防予算を圧縮するのは民主党政権に託されたミッションでもある。代議員としての立場の手前、党の財政政策を否定するわけにもいかない。
共和党のロムニーはオバマの軍事予算カットを激しく批判したほか、バージニア州の軍関連施設で行った演説で海軍の増強を約束するなど、なりふり構わない「バージニア取り込み策」に走っている。フンは浮動層の有権者の説得に励んでいるが、政府や国防総省からの仕事で生活を成り立たせている人々の不安な気持ちは痛いほどわかるだけに、彼らの票がロムニーに流れるのを食い止める絶対の自信はない。
フンは今回の選挙で、アジア系アメリカ人の扱いにもがっかりしている。
ベトナム中部のダナンで生まれたフンは、5歳のときに両親とロサンゼルスに移住した。11歳のときに東海岸に移り、大学を卒業してからは世界的な国防・航空宇宙関連企業のBAEシステムズや、連邦政府機関に務めたのち、コンサルタントとして独立した。州内で最も所得水準が高い地域の一つ、北部のフェアファックス郡に住む。典型的なアジア系のエリート移民に分類できる。
バージニア州全体ではアジア系の人口は4%に満たないが、フンによれば州北部には中国系、韓国系、フィリピン系、ベトナム系、インド系、パキスタン系のアメリカ人が多く、議会下院の選挙区によっては10%から15%を超える地区もあるという。
それなのに民主党も共和党も、オバマ陣営も、アジア系を相応に扱っていないと、フンは不満げに言う。
「人種的マイノリティーというとどの陣営もアフリカ系とラテン系(中南米系)ばかりに気を遣う。人口では確かにアフリカ系やラテン系が多いが、地区によってはアジア系とアフリカ系やラテン系の投票数がほとんど変わらない場合もある。登録有権者数の比率はアジア系のほうが高いからだ(注:アメリカの選挙は事前に登録した有権者のみが投票できる)」
フンによれば、アジア系の特徴の一つは、人権問題を他のマイノリティーより重視する傾向が強いことだという。彼らが4年前に期待したほど、オバマ政権がアジア諸国の人権問題の改善に積極的に取り組んでいないことにも、バージニア州の一部のアジア系有権者は失望しているという。
アジア系を含むマイノリティー層がオバマにとっていかに重要か。
2008年の選挙でバージニア州が44年ぶりに「赤の州」から「青の州」に転じたのは、前述した若年世代のホワイトカラーと、マイノリティーの人口が増えたことが主因と分析されている。
白人のブルーカラー層に限ると4年前の選挙でオバマは34%しか得票できなかった一方、州の人口の30%を占めるまでになったマイノリティー層では83%と圧勝した。景気停滞で白人ブルーカラー層がさらにオバマに不満を募らせていることを考えると、マイノリティーの動向は前回よりも大きな意味をもつ。
10月18日には、有権者登録用紙を破棄した疑いで、バージニア州共和党から仕事を請け負っている会社で有権者登録の管理業務に従事する白人の男が逮捕されるという事件まで起きている。共和党は事件に関わった疑いのある企業との契約をすぐに打ち切ったが、民主党は徹底した調査を司法当局に求めており、何らかのスキャンダルに発展する可能性もある。
オバマが負けることは心配していないのかと、フンに聞いた。ほんの少しの間を置いてから、フンは「彼の勝利を信じている」と言った。
独立13州の一つであるバージニア州が、建国の父たちが取り決めたシステムのせいでキャスティング・ボートを握るのは、運命のように思えなくもない。バージニア州の選挙人、全米538人のうちわずか「13人」が世界に影響を及ぼす指導者の選定をどのように左右するのかは、おそらく、11月6日投票日の夜遅くまでわからない。