(以下はフィクションです)
「総理」
首相が座る一人掛けのソファのそばにいた秘書官が声をかけた。返事がない。いつもより首相が座っている場所から距離を置いて立っているせいか。それとも彼の声が聞こえていないのか。少しためらってから、秘書官はもう一度呼んだ。
「…総理」
「ああ。いい時間かな」
首相は穏やかな表情だった。記者に囲まれたぶら下がり取材の時などに見せる、慇懃で嫌みな作り笑いとは違う自然な顔。実際にはもっぱら、本当に思い詰めている時に見せる表情だと、日頃から接している秘書官は知っていた。
「ええ。3分後です」
首相はゆっくりと立ち上がり、演台としてしつらえたデスクがある隣の部屋に向かった。原稿を持つ手は震えていなかったが、カーペットを踏み込む足取りはよろめき気味だった。
あの日以来、半日の休みすら取っていない疲れなのか。あるいは、2日ほど前から眠る時間も惜しんで今日のスピーチの原稿を繰り返し書き直していたせいなのか。
秘書官は官房副長官のほうを見た。副長官は口をへの字に結んだまま、(大丈夫)と言うふうに目を薄く閉じながら大きくうなづいた。
「どれくらいの人が聞いてくれるかね」
部屋に入る直前、首相は秘書官のほうに体を半分だけ傾けて言った。演説は午後8時54分から9分間と30秒。首相としては本当はもう少し早い時間帯に、そのように半端でない時間から始めたかったが、民放テレビ局が難色を示した。官邸とテレビ局、ラジオ局との調整の結果、比較的視聴者とリスナーが多く、かつ既存の番組編成にできるだけ影響を与えないという条件でこの時間に決まった。
「被災地でもできるだけ避難所にテレビなどを設置しましたから。ラジオもかなり告知してくれています」
秘書官は、首相の質問には直接答えずに言った。初動の対応や被災地への視察、放射線量の問題などで首相と官邸と内閣への批判が高まっている状況で、「総理大臣から国民の皆様へのお願い」にどれだけの人がわざわざ時間を割いて耳を傾けてくれるのか。官邸の多くの人間はさほど期待していなかった。
部屋に入った首相は待ち受ける中継スタッフに軽く会釈をして、デスクに座った。照明がいつもよりまぶしく感じられたが、それを悟られないように表情を作った。「記者でもなく党やあなたの支持者でもない。目の前にいる、顔が見える一人ひとりに話しかけるつもりで」と、夫人からはアドバイスを受けていた。
「よろしいですか」
放送局から派遣されて来たディレクターが声をかけると、首相は「よろしくないよ」と言って舌をぺろっと出し、自分のネクタイを指差した。「マイクマイク」
慌てて飛んできた若いADに音声マイクを取りつけてもらいながら、首相は「ちゃちゃっとやっちゃおうな」と部屋にいる7、8人ほどの官邸と中継用のスタッフを見渡して言った。
落ち着いてる、大丈夫そうだなと秘書官は思った。準備が整ったのをさりげなく確認した首相がスーツの内ポケットから紙を取り出し、部屋に持ち込んだ原稿と交換したことに彼は気づかなかった。
宮城県の避難所となっているある中学校の体育館では、フロアの片隅に置かれた32インチ型の液晶テレビの周りに人々が群がっていた。高齢の男性や女性もいれば、中学生や高校生もいた。多くは午後8時から放送していた民放のバラエティ番組を見ていた。
「総理がなんか喋るんだって」
50代の男性が誰に話しかけるともなく言うと、へえ、そう、という低い声が漏れた。
「ドラマ、やらんのかな」
30代の女性がそばにいた小学生の息子を見て言った。午後9時からの番組がいつも通りの時間に始まるのか、気がかりな様子だった。息子は少し首をひねってから「総理って何しゃべんの?」と女性に聞いた。母親は「…さあ」とだけ小声で言って、疲れきった表情に戻った。
JR山手線の有楽町駅にほど近い電力会社の本社では、福島第一原子力発電所の対応に追われる社員、関係企業の社員や技術者、原子力安全保安院のスタッフ、フランスの原子力関係会社の社員、アメリカ政府のNRC(原子力規制委員会)や米軍の特殊対策チームの専門家が、各階に設けられた部門別本部やオペレーションルームの間を昼夜なく忙しく行き来していた。
4階のある会議室で、30代の男性社員の1人がおもむろにテレビのリモコンをいじってNHKを映した。電力会社や安全保安院の会見が中継されるとわかっている時以外、通常の放送をモニターで流すことはほとんどない。いぶかしそうな顔をする他のスタッフに、男性社員は「なんか総理の緊急会見かなんかあるらしいんすよ」と言った。
「会見はねえだろ。緊急ってなんだよ。どうにもなってねえぞ。2号機も3号機も」
チームリーダーの40代の男性社員が言うと、テレビをつけた社員は「そうすね」と頭をかき、部屋の隅のテーブルにあった菓子パンを手に取ってほおばった。「ふくひまのこと…じゃないのかな」
首相はカメラの正面に位置に座り、デスクの上に両肘を置いた。両手の指を組み合わせ、目を閉じた。あの日の三陸、その後の原発、避難所の人々、南相馬やいわき、自衛隊や消防やボランティアの人々、千葉や茨城も含んだ被災地の光景をフラッシュバックのように頭に浮かべた。
「ではいきます。ゴー、ヨン、サン……」ディレクターの合図を聞いて首相は目を開け、ゆっくりと話し始めた。
「みなさん、こんばんは。内閣総理大臣の××××です」
そこで一旦、間を開けた。犠牲者への追悼の言葉や行方不明者、遺族や家族をおもんばかる言葉はあえて入れなかった。避難住民をいたわる言葉や救援・復興活動に従事する人々をねぎらう言葉もない。スピーチの原稿を作る官邸のスタッフは入れるべきと主張したが、首相は譲らなかった。
わずか10分足らずの演説の貴重な時間を、そうした形式的な言葉に割くのは惜しい。今このタイミングで伝えなければいけないことを伝えるために1秒1秒を使いたいと、首相は官邸のスタッフに説明した。
「あの日から1カ月半がたちました。地震と津波が残した傷跡はなお深く、福島第一原子力発電所では原子炉の危機を食い止める作業が続いています。
これだけ多くの尊い命が奪われたこと、これだけ多くの罪も無い人々が家や暮らしを奪われたことは、国のまつりごとを司る者として痛恨の極みというほかありません。私たちは自然の脅威をあなどり、技術を過信した。あるいは、科学を都合のいいように解釈して自然を冒涜した。その報いをこのような形で受けることになった責任はすべて私たち政治家にあります。
被災地の復興には大規模な財源が必要であり、大変心苦しくはありますが、国民のみなさま全員に負担をお願いすることになります。しかし政治は政治として、反省と償いをしなくてはなりません。
とりわけ原子力政策と電力政策についてはこれを根本から見直し、シェールガスなどのほか、太陽光発電や風力発電など再生エネルギーの導入拡大に関する経済合理性とコストの試算検討を大至急進めるとともに、原子力発電所の存廃について…国民投票を実施することを提案して参りたいと考えています」
「何を言い出すんだ総理は!」 永田町にある党本部の会議室でスピーチの中継を見ていた与党議員たちは騒然となった。今夜の演説は福島第一原発の工程表についてより詳しく説明し、あわせて復興構想会議で話し合われているグランドデザインについて当たり障りのない表現で述べるだけのことと党内では説明されていた。
もちろん、実際には、より重大な何かを発表するのだろうとほとんどすべての議員は思っていた。でなければ、NHKだけでなくわざわざ民放のテレビとラジオの枠まで抑えて演説することなどあり得ない。そして多くの議員は、おそらく総理は辞任表明するのだろうと、その立場によって不安か期待のどちらかを交えて予想していた。
原発の存廃について首相が軽々しく言及するなどとんでもない、不信任決議が出たら賛成か棄権もいとわないと、一部の議員たちはいきり立った。携帯電話に向かってがなり立てながら、財務省や経済産業省の庁舎へ飛び出していく議員もいた。
そこへ「まあいいから、黙って見とけよ」と、太く低い声が響いた。テレビのすぐ近くに陣取って中継を見ていた反主流派の領袖的存在の大物ベテラン議員だった。議員たちの狼狽をたしなめるように彼は続けた。「最後まで聞いてからだ。なんもかんも」
<後編に続く>
竹田圭吾blogを過去に遡ってちょこちょこ読んでいる。「総理大臣のスピーチ」は読み物として面白い!後編は書くつもり無いんだろうか。スラムダンクの"第一部完"みたいにやるんだろうか。
投稿情報: Ideta11 | 2011/05/02 19:58
光景が目に浮かびました。早く後編が読みたい(笑)
投稿情報: kinoshita_k | 2011/05/03 18:34